作品の中の「凄い」

スポーツなどの判断基準が明確なネタでは作品の中でキャラクターの凄さが表現が比較的容易だが、
お笑いや、音楽、絵画など芸術作品などの判断基準が明確でないネタを扱うと表現が難しいという話。


が、まれにそれが出来てしまう作品がある。
それが「リンガフランカアフタヌーンKC):滝沢 麻耶」なのである。
リンガフランカは違った。キャラクタが披露する漫才のネタ自体がもう面白いのだ。
扱っているネタ(ここではお笑い)が面白いから、キャラクターが凄いと思える。
「作中のキャラクターが披露する漫才が面白い……だからそのキャラクターが凄い……だからこの作品が凄い」と言う作中個々の評価が、作品の評価に連続する。
当然、漫画としての構成、ストーリーも面白い。
「お笑い」のみがコミュニケーションに用いる「共通言語」としてしか生きてゆけない二人のどうしようもなさと、ひたむきさに溢れた漫画。傑作と言って良い。


話が逸れた。
通常、お笑いや、音楽、絵画などの芸術作品を扱うものは、「キャラクタの披露する作品」自体の凄さの表現が難しいため、
それが「こいつスゲエ」と言う評価に繋がりにくい。
お笑いならば、そのキャラクターが話すお笑いネタ自体が面白くなければ、
絵画なら、そのキャラクターが描く絵自体に感銘を受けなければ、
音楽ならば、そのキャラクターが奏でる音楽自体が聞こえてこなければ、
そのキャラクターが凄い>この作品凄いと言う評価に繋がりにくいのではと考える。


昔、少年サンデーでやってた「マッシュ -時代より熱く-:山田貴敏」を読んだときに初めてこの感覚を持った気がする。
この作品は絵画ネタを扱う作品であったが、主人公の描く絵画は、作中の皆が「凄い」とは言うのだけれど、それが自分の感情として「凄い」と思わせるものではないという齟齬を感じつつ読んでいた覚えがある。いや、好きな作品なんだけど。この違和感だけは最後まで消えなかったのは事実なんで。


しかし、「のだめカンタービレ」を自分が受け入れられるのはどうしてなんだろうと、この件について思ったときに、彼らは話の展開をその音楽のテクニックではなく、個々の音楽技術に拠らない個人特性で解決していくからなのだろうなとか思った。のだめに登場する人物が解決しなければいけない事象は音楽だけではないってところが自分が受け入れられるところなのかなあ。音楽ネタ作品ではあるんだけど、ある意味、音楽は二の次っていう感覚。


だから、芸術作品ネタの漫画って扱いが難しいぶん、それが出来てる作品を見るとかなり驚きますね。