不屈の魂はこの胸に

「不屈のこころはこの胸に」



 その手にはS2Uが握られていた。

 アースラ艦内、クロノは押し黙ったまま、薄暗いモニタルームの一席に腰掛けている。
機械音だけが僅かに響く室内には彼しかいない。目の前のモニタだけが光を放ち、その顔を照らしている。

しばらくしてモニタルームの入り口が開き、廊下の光が差し込んだ。
エイミィが中を覗き、誰かを捜している様子で辺りを見回す。

「クロノくん?」
奥の人影に声をかける。
クロノはそれに気付かぬ様子で、何も映っていないモニタに視線を向けている。
そして彼は、右手のS2Uに視線を移し、目を閉じる。そこから、何かを感じ取るかのように。
脳裏に映るのはただの数字と記号の羅列。
それはS2Uが使用した魔法が記録されたログ・データだった。

ログの日付は、十一年前。

エイミィはクロノにやや離れたところまで近づき、黙ってその姿を見守る。
一連の事件の原因が闇の書であると判明した時から、クロノはこんな様子を見せるようになった。

ややあって、エイミィに気付いたクロノは彼女を気遣うように声を掛ける。
「…ああ、ごめん…」
「ううん…」
クロノはエイミィに気付き声を掛けたが、まだどこか上の空だ。
再び沈黙が場を支配する。

「あの…艦長がブリッジまで来てちょうだいって。…先、行ってるね…。」
声を掛けあぐねているエイミィが耐えきれず、用件だけを伝えてその場を去ろうとする。


そんなエイミィを引き留めるかのようにクロノが声を掛ける。
「ごめん…。ちょっと…いいかな」
「え…、うん」

クロノにはまだ迷いがあった。闇の書に対して如何に向き合うべきか、と。

 そのひとつの答が、クロノの手にするS2Uにはある。
彼の父であるクライド・ハラオウンが如何に闇の書と戦ったのか…。
ただの数字の羅列に過ぎないログ・データ。だがそれは彼の最期を明確に記録していた。


 彼が物心ついた頃、はじめてリンディから渡されたデバイス、S2Uに触れた。
父の形見であるそれから、まだ幼いクロノが感じた父の最期の姿。時を経るにつれ朧気だったその姿は、
胸の中で次第に大きくなってゆく。
父の最期の行動を理解できず、それゆえに、強さだけを求めたこともある。
自分以外のだれも必要とせずに、独りで戦える力を。ただ、敵を倒すためだけの力を。

そんなクロノを変えてくれたのはエイミィだった。独りではできないことがあることを教えてくれた彼女。
そして彼女は、今も傍らに居てくれる。その時の事を思い浮かべて、クロノは微笑んだ。

やがて、この迷いをエイミィにならば打ち明けられる。彼はそう思っていた。

不意に微笑みを見せたクロノを、エイミィが不思議そうな顔で見ている。
その視線に気付いたクロノは恥ずかしそうにすぐに表情を引き締めた。
「あの…聞いてもらいたいことがあるんだ」
「うん…」
そんな彼の様子を見て、安堵したのか彼女も微笑みで応じた。


クロノはゆっくりと語り始める。
十一年前に父であるクライドと闇の書の間に、何が起きたのかを。


    【十一年前】


 エスティアからの最後の通信が途絶えた。
先ほどまでクライドの姿を写していたモニタはノイズで埋め尽くされている。


「クライド…君…」
リーゼアリアが祈るような仕草と共に目を閉じた。


すでにアルカンシェルのチャージは完了し、すべてのセフティも解除された。
誰もが同胞の艦を撃つというその瞬間、グレアム艦長の決断の時を待っている。


転じて、エスティア艦内。
グレアム提督との通信を終えたクライドはゆっくりと振り向いた。
抑えきれないほどの巨大な魔力の流れがクライドに向かい近づいてくるのを感じる。
艦内の爆発に紛れて霞んで見えるが、白煙の向こう、闇の書は最後に艦内に残った魔導師であるクライドの存在を感知したのか、遂にここ、管制室までたどり着いたようである。


アルカンシェルの発射まであとわずか…」
クライドと対峙した闇の書の周囲の空間が歪んでいる。
膨大な魔力が暴走し、周囲の物理法則をゆがめているためか、その姿は捉えきれない。


手にしていたカード型のデバイス、S2Uを真上に放り投げた。
即座に杖の形状を成し、漆黒の杖は主の意志に沿うかのようにその手に収まる。


クライドは片手で印を切り、すぐさま予め唱えていた遅延魔法を次々と発動させる。
S2Uがすぐさまそれをサポートするように魔法のスタックを処理し、具現化する。
複数の魔法がほぼ同時に発動するようにS2Uによって再調整されたクライドの魔法は、
闇の書の周囲に、幾重にも結界を張り、捕縛し、反応する間もなく射抜いた…はずであった。


しかしクライドの思惑は外れることになる。


クリスタルケイジの中に突如現れた人影。
闇の書を護るかのように現れたそれはクライドの放った魔法のすべてをその身体で受け止める。
いや、その身体に纏った魔力で、クライドの魔法を相殺したのだった。


「なにっ!」


煙に包まれたケイジの中で、魔力光がその色を濃くする。
ケイジを破らんと手を伸ばし、まるで硝子を砕くかのごとく結界が綻びてゆく。
結界を解くのではなく、力づくで破壊しているのだ。
膨大な魔力を惜しみなく放出し、周囲のものを破壊し尽くす。それは、闇の書の暴走の特徴でもある。


(ここまでとはな…)
クライドは闇の書を侮っていたのかも知れない。
事実、先に繰り出した彼の魔法は、闇の書に通ることもなく、黒い魔力光に包まれた闇の書に傷ひとつつけていなかった。


そして、かき消される靄を払うように現れた女。
目を惹く銀糸の様な髪、ほのかに幼さを残しつつも凛とした面持ち、そして紅い双眸が彼女の美しさを際だたせている。
闇の書の管制人格が姿を現したのである。


闇の書はつい、とクライドを一瞥したかと思うと、クライド捕らえるかのように最短距離で接近した。
(速い!)


クライドを狙うのは、いともたやすくケイジを破ったその右腕。
それはクライドの眼前まで伸び、魔力を込めたその手でクライドの首を狩ろうとする。
対しクライドはあらかじめ唱えていた近接攻撃用の小規模のバインドを遅延発動させ、その腕を拘束する。
「甘いっ」
闇の書の腕を捕らえたクライドは即座に、闇の書の腹にS2Uの先端を押し当て、魔法を繰る。
「ブレイク!インパルス!」
瞬間、両者の間に爆発が起こり、闇の書の身体が宙に浮く。
寸剄のように直接触れた相手に衝撃波を送り込むこの魔法は、魔法防御を透して効果的にダメージを与えることが可能だ。


結果的にクライドから距離をおくことになった闇の書。
爆煙が晴れ、闇の書の様子を確認する。
闇の書の脇腹には大穴が開かれていた。だが、その穴はすでに再生が始まっている。
(自己修復…か)
数秒のうちに修復を終えた闇の書は、何事もなかったかのようにクライドに向き合った。


「上等だ」
クライドはつぶやいた。


そして二人は言葉もなくその力をぶつけ合う。しかし、その姿は対照的だった。
クライドはS2Uと連携し、高速詠唱で闇の書を間断なく攻め続ける。
対して、闇の書は悠然とその魔法をすべて受け止め、クライドの身体を薙ぎにくる。
膨大な魔力を盾にし、また矛とする闇の書に対して、クライドはそれを上回る強大な魔法を以てせねば耐えられない。
そんな行動はいつまでも続くはずもなく、クライドは直撃を避けつつ、機を伺っていた。


闇の書の機能を停止させるには、そのリンカーコアをまず砕かねばならない。その瞬間を得るために。


リンカーコアに内在する自己修復機能、せめて転生機能だけでも破壊すれば、アルカンシェルで闇の書を消滅させることも可能となるだろう。彼はそう考えていた。


やがて二人の戦いに一瞬の間隙が生まれた。均衡する戦いの中、それぞれが状況を打破するため、一計を案じていた。
ほんのわずかな静寂が訪れたその時、複数のアラートがエスティアの艦内に響き渡る。
その中に紛れて、ひときわ異質なクリティカルアラート。


クライドはそれを耳にしたのだ。それはエスティアの駆動炉の限界が近いことを表すものだった。
エスティアの駆動炉のキングス弁が抜かれている…!)
エスティアの駆動炉が全力運転を始めていた。ひび割れた計器が見る間にレッドゾーンまで上昇してゆく。
高出力の駆動炉が臨界を迎えれば、高い確率で、他次元への道を開くだろう。
エスティアのコントロールを奪った闇の書は、駆動炉を意図的に暴走まで引き上げ、生じた次元の裂け目を利用して逃走を計るつもりなのか。
依然、機械音声の刻む正確なカウント・ダウンが、エスティアの主砲発射まで残り僅かであることを告げている。


「ちっ…」
もはや、闇の書のコントロール下にある駆動炉の暴走を止めることはクライドには出来ない。
舌打ちをしたクライドに闇の書がクライドに声を掛ける。
「人の身の魔導師にしてはなかなか、やる…」
「お褒めにあずかり光栄だね」
クライドも引く気は毛頭無い。可能ならば闇の書を滅し、脱出する算段もまだ捨ててはいない。


「だが、それも此処までだ。」
闇の書が冷たく言い放つ。


闇の書がゆっくりとその身に纏った魔力を右手に集中し始める。
闇の書の魔力の揺らぎを感じ取り、その姿に注視する。闇の書は右手を虚空に翳した。
漆黒の球体が支配する領域が見る間に拡大してゆく。まるでそれは巨大な鉄塊にも似た様相である。
そして、ブリッジを覆い尽くさんとするほどの巨大な塊と化したそれを、躊躇なくクライドに振り落とした。


クライドに逃げ場は、ない。


彼は覚悟した。
(逃げ場がないのなら…!)


クライドは自ら、その塊に突貫する。
「突き進むまでだ!」


クライドは地を蹴った。
瞬時に自分の前方に高密度の魔法障壁を展開し、ただひたすらに、まっすぐに、闇の書へと突き進む。
収束された光の壁は徐々に収斂してゆき、まるで槍を持ち突撃する騎士のような姿を成す。
だが、引き替えに防御の薄くなった後方より、闇の書の魔力が次々と襲いかかりクライドの身を苛む。
けれど彼は、決して止まらない。
ただひたすら、襲いかかる闇を引き裂き、闇の書の胸を目掛けて突き進む。
闇の書のリンカーコアを砕くために。
黒塊を突き抜け、闇の書の目の前に現れたクライド。
闇の書の目前にまで近づくと、魔法障壁に使っていた魔力を、攻撃の為に転化させ、一点突破で闇の書の胸を狙った。
闇の書は己が胸を守るべく、シールドの展開を試みるが、不意を突かれtたためか、間に合わない。。
クライドの手が闇の書の胸を突き、その奥に在るリンカーコアに刺さる。


苦悶の表情を浮かべる闇の書。クライドの手には確かにリンカーコアを抉った手応えがある。
だがその瞬間、クライドの視界は暗転した。


一瞬、前後不覚に陥ったクライドは思わず周囲を見回す。しかし、そこは何も見えぬ漆黒の世界だった。
傍らと果てが同じに見える世界。
進んでいるのか、それとも退いているのか、それすらもわからない。
やがて黒き世界に目が慣れるように、徐々に様々な情景が彼の脇を通り過ぎてゆく。


音無き映像の奔流。それはまるで長い長い旅の記録、そして戦いの記録のようだった。
様々な光景が凄まじい速さでクライドを通り過ぎ、その背後に消えてゆく。
剣もつ人々。魔法を繰る者どもその後には必ず。累々と横たわる死体の数々。
(これは…?)
その映像の端々に見える少女の。彼女はどこか悲しげで、諦めにも似た表情でおのおのの世界を見つめている。
よく見れば、それは先に眼にした闇の書にどこか似ている気がした。
(闇の書の記憶…?)
クライドはいま、闇の書の記憶を辿っていた。
リンカーコアに触れたことで、闇の書に記録されている情報がクライドに流れ込んだのである。
少女の姿は徐々に若くなり、闇の書の記憶をさかのぼっていることがわかる。


やがてその流れは緩やかになり、すべての始まりのときへと近づいていることを予感させる。
闇より深い漆黒。闇の塊、それが辿り着いた果てにあるものだった。


彼は無意識にそれに手を伸ばした。
闇が晴れ、そこから光が漏れ出でる。その中に秘められた”原初の記憶”
旅の果てに見た光景は、命を終えようとしている魔導師の傍らで、銀髪の小さな少女が泣いている姿。
それは一瞬でかき消え、さらにまばゆい光のなかで微笑む少女の姿が現れた。
無音だった世界に声が聞こえた。彼女の世界が始まった声を。
クライドはその先に続く彼女の名前を、確かに耳にした。


全てが流れ去り、ひとり、僅かに光に包まれた空間に佇むクライド。
ふと彼が己の右手に目をやると小さな光が収まっていた。
先ほどクライドが付けた傷を負っているようにみえるそれは、闇の書のリンカーコア。
いま、此処でこれを握りしめれば、容易く砕くことができるように思える。
握りしめ、その光を砕こうとしたが、彼の手にはなぜか力が入らない。
彼は闇の書を壊すことを躊躇った。
最後に見えた、闇の書の笑顔が脳裏から離れられずに。
だがその迷いも長くは続かない。


「ぐぁっ!」
クライドは激痛とともに現実に引き戻された。
夢から覚めた現実では、闇の書の魔力を纏った拳が、脇腹にめり込んでいたのである。
ただ闇の書を貫くことのみに特化し、己の防御に魔力を割いていなかったクライドにとって、それは痛恨の一撃だった。
魔力を纏った拳で殴られた肋骨が軋み、砕ける。
闇の書の胸を貫いていた手は引き離され、クライドの身体は、そのまま、ブリッジ前面のモニタまで吹き飛ばされた。
背中から叩きつけられ受け身も取れないかったクライドは、頭からその身を落としてゆく。
そのまま叩きつけられようかという一歩手前、S2Uが浮遊魔法を発動させクライドを護った。
浮遊魔法を唱えることができないほどに完全に意識を失っていたクライド。だが激痛が彼を覚醒させる。
「うっ、ぐううっ!」
全身に痛みが走り、思わずそのまま地に伏せてしまいそうだ。


だが、S2Uを支えに必死に立ち上がるクライド。
彼はS2Uに目をやり、「すまん」とS2Uに謝る。だが彼の杖はそれに応えない。その機能がないからである。
だが彼には解っている。言葉は無くとも彼の身を案じてくれたS2Uのことを。


クライドは周囲の状況を確認する。体勢を崩している今は隙だらけだ。
今このときを狙われてはひとたまりもない。
すぐにでも立て直さねば…と思い、闇の書を見やるが、闇の書は虚空を見つめたまま動かない。


(なぜだ…?)
俺を叩くならば今が好機だったはずだ。だが闇の書は動かなかった。
やがて、何かを案じているかのような視線でクライドを見つめる。


ふたりの視線が交錯する。


クライドの中で二つの姿が重なる。
リンカーコアに触れ、闇の書の歴史とも言うべき記録に触れた、その果てにいた小さな銀髪の少女と、目の前にいる闇の書。
クライドが見たのは遠い記憶。闇の書がまだ、夜天の魔導書と呼ばれていた頃の思い出だった。


闇の書は元来その名を夜天の魔導書という。長い歴史のなかで数え切れぬほどの人の手に渡ったロストロギア
初めて彼女を造り出した魔導師。彼女と共に旅した記憶が原初の記憶。
主の望む知識を蓄え、そしてそれを顕現させる力、膨大な魔力を蓄えることの出来る器として、主に従事した日々。
彼女を創造したとき、その主は彼女に名を与えた。夜天の魔導書と。
名を与えられ、初めて世に具現化した彼女。


だが、いつしか夜天の書の力に目をつけた人々が争いを始める。
破壊と欲望の為だけに力を求める負の螺旋。夜天の魔導書を愛でてくれた主は殺められ、彼女は奪い去られた。
その戦いさえも全て己が身の内に記録し取り込んでいた夜天の魔導書は、いつしか人の心の闇を澱のように積み重ね、その心と身体を蝕んでいく。


夜天の魔導書は望んで、闇の書へと変貌したのではない。
その所有者が、正しき力として扱わなかったがゆえに徐々にその機能を変えてしまったのである。
自らが望むように存在することを許されなかった悲しきロストロギア
それがかつて夜天の魔導書と呼ばれた存在、闇の書であった。


彼女はその心の奥底でずっと何を思ってきたのだろう。
いや、もはや苦しみを感じることもできぬほど、心の奥底に隠れていた夜天の魔導書が、クライドの一撃によって呼び起こされたのだ。


闇の奥底深くに沈んでいた心が開きかける。
彼女は思い出す。今は遠き記憶の果てに在るその姿を。
ロストロギアであり、プログラムでしかない存在に、心の臓などあるはずもない。
だが、確かに過去の記憶が微かに胸を痛めたのだった。彼女の頬にひとすじ流れるものがある。
それは涙。喜びゆえか、哀しみゆえか。
かつての自分を取り戻した喜び、もう戻れない過去を思い出してしまった哀しみ。
そのどちらもが、彼女に涙を流させたのだった。


闇の書はまだ微動だにしない。思いに耽っているようにも見える。
彼女はクライドがリンカーコアに触れた時に見た幻視を辿っていた。
いま、そのイメージを彼女の心の隅にはっきりと思い浮かべることが出来る。短かったけれど平穏だった日々の記憶。
彼女が胸の奥底に閉じこめていたその記憶は、まだ確かに存在していたのだ。


そのとき、クライドが闇の書に声をかけた。


「夜天の魔導書……」
不意に名を呼ばれ、はっと声の主を見つめる闇の書。
やはり彼がこの記憶を蘇らせたのだ。彼もあの記憶を視たのだと確信する。


クライドもそれを見て、『夜天の魔導書』が目の前のロストロギアの真名であることを確信する。


「戻りたいか?」
続けてクライドは闇の書の奥底に居る者に声を掛ける。
彼は問うているのだ、あの頃へと戻りたいのか?と。


出来ることなら戻りたい。今までも幾度か、だが彼女は一人でその闇を振り払おうとしてきた。
だが数多くの人々が宿した闇の呪縛はもはや彼女ひとりでは抗えぬほどに強く、彼女を縛っている。
そんな過去を反芻し、夜天の魔導書は再び挫けそうになる。


そんな想いをクライドは読みとったのか、闇の書に語りかける。
「お前は、一人じゃない。」
夜天の魔導書の意思を聞くまでもなく、クライドはもう既に決めていた。
たとえロストロギアであろうとも、その内にある心を、彼は助けたいと思っていた。


ふと、任務に出るクライドの側から離れたがらず泣くクロノの顔が浮かんだ。
(泣いてる子供は放っておけねぇんでな)と心中独りごちる。


夜天の魔導書は、今まで様々な主の手を渡り歩いてきた。だが、彼らはみな闇の書を道具のように扱うに過ぎなかった。
彼女は器であり、力であり、その機能だけが、彼らが夜天の魔導書に望むものだった。
しかしクライドは違った。一人ではないと言ってくれた。ほんのわずかな時間でも共に生きると言ってくれた。
自分を生み出し、慈しんでくれた魔導師と同じ、やさしげな声で。


「はい…」
夜天の魔導書は自然と、クライドの言葉に応じた。


そのとき。
夜天の魔導書の思いに反応したのか傷ついたリンカーコアの修復が急速に進み始める。
自動防御プログラムが彼女の心に浸食を始め、呼応して苦悶の表情を浮かべる。
夜天の魔導書は必死に記憶を失わぬように、自動防御プログラムを抑えようとするが、その力はまだ弱く、均衡を保つのがやっとだ。
リンカーコアに直接の打撃を受けたことで自動防御プログラムの支配力がさらに増し始めている。


闇の書の周辺に小石ほどの黒球が生まれる。
徐々にそれは数え切れぬ程に増殖し、闇の書の周囲でいつ放たれても良いようにうねりをあげている。
その一つ一つに先にクライドが切り開いた黒い塊を凝縮したほどの魔力を感じる。
『闇の書』は総力戦がお望みらしい。


対して、膨大な魔力を内包し、行使できる闇の書に対して、その魔力の総量は人の器では比較にならない。
クライドの魔法力は先の攻撃で既に底を尽き掛けている。


夜天の魔導書とのやりとりの間、クライドはリンカーコアに触れた時の情報をS2Uに解析をさせていた。
彼女を元ある姿に戻す。その方策を探るために。
やがてS2Uが結論を導き出す。それは分の悪い賭けにも等しい結論だった。
もう一度、闇の書のリンカーコアにアクセスし内部から闇の書のコードを書き換えるという結論。
そのためには先の攻撃に等しい、いや、それ以上の魔力を必要とするだろう。


「だが…」
僅かでも可能性があるのなら、それに賭ける。時に運命とはそうして切り拓かれるものだ。
クライドはS2Uに命じた。
この先使用する魔法を全てクライドの生命力から変換するように、と。
そもそもデバイスには術者のリンカーコアより供給される魔力を使い切らぬよう、リミッタが掛けられているが、それを解除しようというのだ。
文字通り、命を賭して戦うための命令だった。純粋魔力がもう残り僅かな以上、他に手段はない。
命令を受けたS2Uの反応がやや遅れた気がした。躊躇ったのかもしれない。
常に命令に対して従順なS2Uらしからぬことだ。
が、魔法の起動シークエンスの設定が変更されたことが解る。


「頼む」
共に死地に向かう戦友に話しかけるようにS2Uに声を掛けた。
やはり応えはない。だが彼には確かにS2Uの声が聞こえた気がした。


クライドの胸に、輝く光が生まれ、強く輝きをましてゆく。
彼の身体に魔法陣が浮かび上がり全身に最後の魔力がみなぎる。


クライドの異変を感じ取った闇の書は、すぐさま攻撃に転じた。
闇の書がすっと手をに伸ばすと、それに呼応するように闇の書の周囲をうねっていた魔力球が一斉にクライドを襲う。


弾丸の斉射にも似たその攻撃。しかし、彼のいた場所には、数多の弾痕が残るのみ。
見れば、ほんの数歩避けただけの場所にクライドはいた。最小限の動きのみで攻撃を避け、闇の書に向かって歩を進める。
闇の書は幾度も攻撃を繰り返すが、クライドを捉えることはできない。


やがて、お互いが手を伸ばせば触れられるかの距離に二人は近づく。
二人は同時に動いた。
クライドは魔力を拳に宿して殴りつける。闇の書もクライドを殴りつける。
お互いが狙うのはそれぞれの敵のリンカーコアだ。


もはやシールドを張るほどの魔力に余裕がないクライドは己のすべての魔力を闇の書の魔力を削るためだけに使っていた。
超至近での格闘戦。
ただ魔力を拳にのせて相手のコアを砕くだけの原始的な戦い。
強烈な魔力を乗せている闇の書の拳はかすめただけでクライドの身を切る。
だがクライドもリーゼロッテ直伝の体術と杖術を組み合わせ、クライドに向けて次々に繰り出される拳を逸らし、直撃を避け、闇の書の隙を突き、コアを狙う。闇の書の胸は強力なシールドで固められてしまい、そう易々と貫けなくなっているが。


辛うじて自立行動が可能な夜天の魔導書も、闇の書を押さえるべく、独自に自動防御プログラムにアクセスを試みる。
だが、その守りは堅く、アクセスすることすらままならない。どこかに道があるはずなのに!
必死に道を捜し求め、闇の書の内部をを走査する。


幾度、拳がかわされただろうか。
クライドの額より流れ出る血は未だ止まらず、その眼を塞ぐ。そこに隙が生まれた。
視界が遮られ、闇の書の動きに遅れをとる。彼は闇の書の拳を避けられなかった。
クライドのリンカーコアに衝撃が走り、その身は衝撃とともにのけぞり、ぴくりとも動かなくなった。


闇の書はクライドのリンカーコアを砕かんと手を伸ばす。その表情に動きはない。ただ、一筋の涙が流れたことを除いて。
それは夜天の魔導書の悲しみ、そのものだった。
己が身さえもままならず、闇に囚われた自分を再び見つけ出してくれた者を、いま、その手で殺めようとしている。
また、繰り返すのか?大切な人を守れなかったあのときのように、傷つきながらも自分を救ってくれる者を自らの手で殺めるのか?


(いやだ!)


夜天の魔導書が叫ぶ。
必死に闇の書の隙を探し出す。今止めなければ、また同じ過ちを繰り返してしまうことになる。
やがて、見えてくる一つの道、闇の書の深き底にたゆたう真の闇の在処。
クライドのつけたリンカーコアの傷のひとつがバックドアのように自動防御プログラムの隙となっていた。
即座にその隙に割り込みをかけて、闇の書の動きを縛る。
闇の書のコアを守っていたシールドが解除されてゆく。闇の書の動きもクライドのコアを掴む直前で止まっている。
もはや視界も薄れ、ぼんやりとしか闇の書のコアを捕らえられないクライドだが、その魔力の在り処だけを頼りに闇の書に近づく。
倒れかかるように闇の書の身体に身を預けた。


「よく、がんばったな。」
かすれるような声で、夜天の魔導書に語りかけて。彼は拳を振り上げる。
クライドは渾身の力で、闇の書のリンカーコアにありったけの魔力を注いだ。
「うおおおおッッ!」


夜天の魔導書がほんの一瞬クライドを主として受け入れる。
そして僅かな時間でできること、それは夜天の魔導書という心が、もう消えないようにと、リンカーコアのコードの一部を強制的に書き換えることそれだけだった。S2Uの中ですでに組まれていたそのプログラムを魔力の塊とともに打ち込む。
闇の書の顔が苦痛に歪む。だがその表情はすぐに安堵の表情に変わっていった。


クライドは、闇の書の前で膝を折る。が、それの身を慈しむように支える。
今まで戦っていたその相手を、いや、共に戦ってくれた者を、優しく包みこむように抱く。


「ありがとう…。」
その笑顔は闇の中で、己の居場所見つけた者のそれだった。


クライドはそれに応えるように微笑むのみだった。


だが、彼はその微笑みを絶やさなかった。もう彼女は闇に消えることはない。
きっといつか、彼女を優しく包む者が現れ、主に応えることができるだろうから。


「今度は、いい奴さ。きっと」クライドは声をかける。
彼は知っているのだ、闇の書はまた転生を繰り返すだろうことを。
だが、夜天の魔導書の呪縛に縛られるだけの運命は、もうないだろう。


夜天の魔導書は無言でうなずいた。


闇の書が転生を始める。
今は夜天の魔導書が表にでているが、闇の書がまた再生を始めれば、今それを止められるほどの力は残っていない。
幾重にも重なった転移魔法が闇の書を包み、その姿が朧と消えてゆく。
夜天の魔導書は消えゆく最後までクライドから目を離さなかった。


独りブリッジと共に元の次元に残されたクライド。その身体は肉体の魔力変換の影響で半身が消えている。
徐々に浸食されている自分の身体を見ながら、彼は愛する者たちへ想いを馳せた。
(クロノ………。リンディ………。)
クロノとリンディは同時に名を呼ばれた気がした。
呼ばれた声を探し求めるように天を仰ぎ、声の主を探し求めるも、彼らを呼ぶ声はもう聞こえなかった。


そして、彼を光が包む。
僚艦から放たれたアルカンシェルが全てを砕くように。


夜天の魔導書は微睡みに浸っているかような曖昧な様子で複数の次元を彷徨っている。
残された魔力を使い世界の中で新たな主を探している夜天の魔導書。ランダムに選ばれた様々な人影が彼女の脳裏に去来する。
クライドが刻んだリンカーコアの傷が疼く。この痕が在る限り、彼のことを、己の過去を、もう、忘れる事はないだろう。


まだ、闇の書の再起動は行なわれていないらしい。ならば、いまならば。
彼女は目を瞑り、脳裏によぎる人影の中から、自らの意思で主を選んだ。


新たなる主、その者の名は…。








■あとがき
あのときクライドさんも頑張っていたんですよ話しゅーりょーです。

第2期放映時に自分の同居人とクライドさんについて話していたときに、
都築真紀作品では、死んだ人間は死んだ人間として意味がある生を全うしているので生き返ることはない」
との言葉を受けて、当時クライドさんの最後について深く考えていなかった自分は、己の愚かさを恥じ、
その結果生まれたのがこの本です。

初めて小説なるものを書きました。拙作ですがお楽しみ頂ければ幸いです。



謝辞
・この本を作るきっかけとなった同居人へ。マジ起こしてくれてサンキュウ。仕事に遅刻しなくて済んだ(笑)
・急遽、リリカルステージに売り子をしてくれる事になったラハノスさんへ。どうもすいません。
・そしてこの本を読んでくれた全ての人に。



発行:なまくら
著者:なまくら
http://d.hatena.ne.jp/katana2015/
katana@mbf.nifty.com